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加賀市・長者屋敷跡訪問記

写真撮影・平成30年5月
記事作成・令和2年9月
「希少地名(一般)」コレクションの協賛企画です。

地名コレクションの「希少地名(一般)」コレクションを見ていると、加賀市に「長者屋敷跡」なる地名が記載されています。遺跡か何かのような名前ですが、凝灰岩台地の名前とのこと。同じ県内にいながらなかなか行く機会がなかったのですが、平成30年のゴールデンウィークにドライブがてら行ってみました。

片野海岸

(写真1・上)片野海岸駐車場にある説明板 (写真1・下)片野海岸駐車場にある説明板(拡大)

(写真1)上・片野海岸駐車場にある説明板、下・説明文部分を拡大。(撮影ポイント)加賀市片野町の集落を抜けて片野海岸の駐車場に来ると、こんな説明板が建っていました。字がかすれかかっていましたが、下記のような事が書かれています。これを読む限りは遺跡の名前っぽいですが…

景観地片野海岸は、近くにサイクリングロードや自然遊歩道があり、夏には海水浴などで大変な賑わいをみせます。また、西南端には伝説の長者屋敷跡があります。

(写真2・上)片野海岸駐車場にある加賀市観光案内図 (写真2・下)片野海岸駐車場にある加賀市観光案内図(拡大)

(写真2)上・片野海岸駐車場にある加賀市観光案内図、下・長者屋敷跡付近を拡大。(撮影ポイント)
説明板の近くには加賀市の観光案内図もあり、長者屋敷跡も書き込まれていました。
長者屋敷跡の斜め下に貼られている写真、自然休養林の写真っぽくないので、どうやら長者屋敷跡のもののようです。

長者屋敷跡へ

(写真3)観光案内図付近から長者屋敷方向を見る

(写真3)観光案合図付近から長者屋敷方向を見る。(撮影ポイントは写真2とほぼ同じ)
写真2の観光案内図付近から長者屋敷跡のほうを見てみました。砂浜が続いた先に緑の丘が海に向かってせり出したようになったところが長者屋敷跡のようです。丘の海寄りが削れたようになっているのが見えます。結構遠そうですね…

(写真4)長者屋敷跡

(写真4)長者屋敷跡。(撮影ポイント)
駐車場から長者屋敷跡の近くまで歩いてきました。500mほどあったと思います。
波や風によって岩が削られた様子が非常に印象的です。おそらく、何らかの屋敷が会ったとすれば上の木の生えているあたりなのでしょうが、どうしても削られた場所に目が行ってしまいます。
ところで、周辺がゴミだらけなのは気にしないで下さい…と言いたいところですが、触れない訳には行かないですね。石川県を含めた日本海側の広範囲の海岸では、冬場の北西からの季節風の影響で大量のゴミが流れ着くのです。海水浴シーズンまでには間に合うよう清掃されるんですが、ゴールデンウイーク頃だとまだ清掃が間に合ってないところもある、と言う事でして…

(写真5)長者屋敷跡の凝灰岩その1 (写真6)長者屋敷跡の凝灰岩その2 (写真7)長者屋敷跡の凝灰岩その3 (写真8)長者屋敷跡の凝灰岩その4

(写真5〜8)長者屋敷跡の凝灰岩その1〜4。
凝灰岩が露出しているところをを見て歩きました。何とも言えないでこぼこ加減が特徴的。「カッパドキアみたい」と書いている方もいましたが、引っ込んでいる部分に人が住めそうかと言うと…うーん。穴が住居跡っぽいので長者屋敷跡、と言う訳では無い感じです。上に登ってみようかとも思いましたが、滑りそうだったのパス。

(写真9)長者屋敷跡の西側 (写真10)長者屋敷跡の更に西側

(写真9、10)長者屋敷の西側。
露出していた凝灰岩が木々の中に消えていく感じになってます。その先は防風林から直に砂浜になる感じで石川・福井県境近くの大聖寺川河口まで続いています。
ちなみに、ここから西には行かなかったので気がついていなかったのですが、航空写真をみると、この先に東屋のようなものがあり、そこから長者屋敷跡の上の方に行く道があったようなのです。防風林の端まで行けるのかどうかは分かりませんが、次に行く時間が取れたら上のほうも確認してきたいものです。

(写真11・上)長者屋敷跡から片野町方向を望む (写真11・下)長者屋敷跡から片野町方向を臨む(拡大)

(写真11)長者屋敷屋敷跡から片野町方向を臨む。
長者屋敷跡から駐車場の方に戻る際に撮影した写真です。片瀬海岸海水浴場から東は台地が海にせり出したようになっており、海岸は岩場となります。その岩場の部分を良ーく見ると…何となく長者屋敷跡と色が似てるような気がしますし、それなりにでこぼこしてる感じもありますし、似たような岩盤なのかもしれません。

余談

さて、なぜここが「長者屋敷跡」なのか?が気になります。
調べたところ、その名称に繋がる明確な理由は伝わっていないものの、長者屋敷跡付近からは奈良時代の土師器や須恵器が出土しており、ある程度身分の高い人物の住居があったのは間違いなさそう…とのことです。奈良時代だと、浸蝕はまだ進んでおらず、もっと海の方にせり出した地形だったのかもしれません。海と縁が深い長者だったのかも。