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一音大字・丹生郡越前町野訪問記

写真撮影・平成18年5月
記事作成・平成18年5月
「一音地名」コレクションの協賛企画です。

一音大字・福井県丹生郡越前町野に行ってみました。
場所はこのあたりです。当地はかつて丹生郡野村でしたが、1889年に野村を含む17ヶ村が合併し宮崎村となっています。宮崎村は発足後約117年間に渡り他の市町村と合併することなく明治の大合併時の村域を保ってきましたが、2005年2月に同じ丹生郡の朝日町・織田町・越前町と合併して越前町となりました。
(現・越前町は新設合併で、旧越前町役場ではなく旧朝日町役場が現在の町役場本庁舎となっています)
この際、字名に旧町名を冠する事は行われなかったため、宮崎村時代に引き続き一音地名の「野」が存続する事となりました。
この「野」には百人一首の「これやこの往くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」と言う歌で知られる蝉丸の墓があります。

(写真1)越前町野のほぼ全景・1

(写真1)越前町野のほぼ全景・その1。(撮影ポイント)集落からちょっと離れた県道から写してみました。盆地の真ん中に位置する、山沿いの小さな集落です。
周囲の田んぼは田植えの真っ最中。(田植え直後の苗は小さいため写真では見えにくい…)

「野」の表示は…

(写真2)越前町野のほぼ全景・2

(写真2)越前町野のほぼ全景・その2。(撮影ポイント)以前に訪問した大野市矢がとても広く思えるほどホントに小さな小さな集落だったので、果たして「野」と分かる看板はあるのか?と不安に思いつつ県道から集落に向かう道に入ってきました。
まず目に入った看板は写真左手に写っている「蝉丸の墓」の案内看板。所在地の事は記載無し。(蝉丸の墓は写真一番右に写っている小さな立木のさらに右手になります)
それから、写真中央にも小さな看板が写っていますが、これは宅地分譲中の案内看板でした。こちらにも所在地の記載はありませんでした。(現在にはここに数軒の家が建っており、撮影当時とは長めが若干変わっている模様)

(写真3・上)越前町野の案内看板 (写真3・下)同・アップ

(写真3)集落横にあった「野」の案内看板。上下ともに同じ物。(撮影ポイント)
集落の横まで来ると念願の「野」の案内看板が立っていました。「NO」というローマ字表記が何とも良い味出してます。(実はここに来るまでの道中で他の集落に同様の看板が立っているのが見えたので、これだけはあるだろうと踏んでましたが、大野市みたいに看板があったり無かったりしたところもあったので、やはり現地に来るまでは不安があった)
ちなみに、集落名の案内看板ですが、旧朝日町域・旧宮崎村域・旧織田町域でそれぞれ違う形のものが立っていました。(今回の行程では旧越前町の方には行けなかったので、そちらに集落名の案内看板があるか無いかは不明)おそらく旧町村が設置したものを継続して使用しているのでしょう。旧宮崎村のものはポールが竹を摸していますが、これは宮崎村が竹の子の名産地である事からこのようなデザインになったのでしょう。旧朝日町・旧織田町の看板も比較のために写真だけ撮っとけば良かったかも…

なお、このすぐ近くに自治会?の掲示板があったのですが、地区名とかは入っていませんでした。集落の集会所も無さそうです。また、集落のまわりを1周しましたが、電柱の「ここは野」というような表示もありませんでした。

蝉丸の墓

(写真4・上)蝉丸の墓 (写真4・下)蝉丸の墓の説明看板

(写真4)上・蝉丸の墓。下・蝉丸の墓の説明看板(撮影ポイント)
もしかしたら蝉丸の墓の案内看板があればそこに所在地が書いてあるかも、と言う事で蝉丸の墓も見に行きました。
上の写真にある3つ並んだ五輪塔の、真ん中の一基が蝉丸の墓とされているそうです。おそらく集落の方たちによって大切に管理されているのでしょう。
で、その横にあった案内看板に目をやってみると…所在地は残念ながら「野」ではなく「陶の谷の郷」となっていました。「陶の谷」はおそらく周囲の盆地一帯を指していたのだろうと考えられます。(ただし、「陶の谷」は「野」の隣の「寺」という集落内の小字名としても使われているようです。Yahoo!地図上には字名としての記載はありませんでしたが、郵便番号が設定されています)